Mar 29, 2010
教授になる前に、塾講師としての経験を
今は公立学校で中学校の教師をしています。教師まで、塾講師をしていました。塾講師をして得た経験が生きています。授業をしており、生徒がつまずくポイントを知っていて、保護者懇談会も経験したので、保護者への対応も学ぶことができた。教員を目指している方は、ぜひ一度塾講師経験をしてください。必ず将来に役立ちます。私が中学2年生の頃、女家庭教師には非常にお世話になっていました。勉強嫌いな私だったので、家庭教師が来る日なのに外に出てサボってしまったりとご迷惑をしてしまったしました。そのような国も無事に高校の試験に合格することができた。行きたかった高校ではなかったが、それは私が勉強をサボってしまった罰だと思っていたので、試験に合格することができたのには感謝しています。
【萌える日本史講座】(4)
頭が上がらない“上司”から「婚約者が次々と早死にする」とうわさがある娘との結婚を迫られる。“部下”は「私にはもったいないですよ」と暗に断る。江戸時代、徳川将軍家と薩摩の島津家との間で繰り広げられたやりとりだ。島津家側はしぶしぶ結婚を受け入れるのだが、この結婚なくして大河ドラマ「篤姫」は成り立たなかった?(渡部圭介)
■不吉な女
宝永元(1704)年、徳川家5代将軍・綱吉は悲報に触れる。一人娘で、紀州藩の徳川綱教に嫁いだ鶴姫が亡くなったのだ。綱吉の鶴姫に対する溺(でき)愛(あい)ぶりは有名で、庶民が「鶴」という字を店名などに使うことを禁じたほど。俳句や人形浄瑠璃の作者として知られる井原西鶴も、「井原西鵬」に変えている。
心にできた穴を埋めるべく、綱吉は側室・大典侍局(おおすけのつぼね)のめいにあたる公家の娘・竹姫を養女に迎え入れ、鶴姫と同様にかわいがった。
宝永5年、竹姫と会津(福島県)の松平正邦との婚儀が成立するが、正邦は婚約から5カ月、12歳の若さで急逝してしまう。
さらに竹姫は同7年に皇族の有栖川宮正仁との結婚が決まるが、正仁も6年後に22歳で没した。
相次いで「夫」が死ぬ事態に、竹姫には「不吉な女」といううわさが広がった。8代将軍・吉宗は哀れみ、自身の妻に迎える話も浮上したが周囲の反対で立ち消えになっている。
吉宗は竹姫を養女に迎え入れ、嫁ぎ先探しに奔走する。しかし「不吉な女」の嫁ぎ先はなかなか見つけることができなかった。
そんなとき、竹姫と年ごろもちょうどいい、薩摩の島津継豊の正室が早世したという情報が舞い込む。
■あれこれ口実をつけるも…
「竹姫を正室に迎えてもらえないか」−幕府側の依頼は“命令”に近いが、継豊は不吉な女との結婚を何とか避けようと画策する。
継豊は周囲に相談して回ったが「将軍家の依頼を断るわけにはいかないでしょう」と口をそろえられる。父・吉貴にいたっては「徳川家と親類になれるんだからいい話じゃないか」とノリノリだったとか。
継豊はさまざまな口実を作る。まずは貧乏をアピールする作戦。「将軍家のお嬢さんとの結婚となれば、それなりの挙式が必要でしょう。島津家には壮大な式を挙げられるだけのお金がありません」。しかし、幕府側からは「“地味婚”でいいよ」と返される。/生命保険選び方?しか興味ない
ならばと「家が狭いので、将軍のお嬢さんには窮屈です」と江戸の屋敷の狭さをアピールしてみたが、「それなら広げてやる」と、旗本を強制的に退去させて広大な土地が用意されてしまう。
継豊には側室との間に跡継ぎの男の子が生まれていた。「竹姫との間に男子が生まれても、跡継ぎにはできないので…」と徳川家が受け入れそうもない理由を突きつけてみたが、「それでもいい」と肩すかしをくらい、継豊は結婚から逃れる道を失った。
■薩摩を変えた女
ここまで幕府側が竹姫の結婚にこだわったのは、数々の不幸を哀れに思った吉宗の強い思いがあったからだといわれている。
一方で吉宗の愛人だったという噂もたった。ちなみに容姿や性格について島津家には「あまり見た目はよくないが利発的」と説明があったという。
享保14(1729)年、24歳の竹姫は島津家に入った。島津家に関する史料を保管している尚古集成館(鹿児島市)の松尾千歳副館長は「竹姫は薩摩を変えた女性です。結果的にみると、この結婚は島津家にとっても徳川家にとっても良かった」と話す。
結婚後は継豊の周囲では不幸が相次いだ。継豊の長男・宗信、次男・重年は父より先に死去。竹姫との間には男子は生まれず、重年の子・重(しげ)豪(ひで)が11歳の若さで家督を受け継いだ。
竹姫は重豪をわが子のようにかわいがったという。重豪は「おばあちゃん」の利発的な性格も受け継ぎ、蘭学に強い関心を抱き、長崎のオランダ商館に自ら出向くほど。武士だけではなく、庶民も通える教育機関の設立も行い、新田開発にも取り組み薩摩に繁栄をもたらした。
■重たい遺言
竹姫は67歳で他界した。「徳川家との縁を大事にしてほしい」と遺言を残したという。「おばあちゃん子」の重豪は遺言の意向に従い、娘の茂姫を11代将軍・家斉の正室に送り込もうとする。
将軍家の正室は皇室や公家から女性を迎えるのが通例になっていた。「家臣」である大名家から妻をもらうのは前代未聞のことだったが、重豪は「遺言」をたてに猛アピールした。
幕府側も、綱吉と吉宗の養女という肩書を持つ竹姫の遺言は無視できなかった。幕府側は茂姫を公家の近衛家の養子にするという「裏技」を経て、家斉の正室に迎え入れる。
寛政8(1796)年、家斉と茂姫の間に男子が生まれる。正室との間に男子が生まれるのは、2代将軍・秀忠と「お江」夫妻以来の慶事だった。
家斉は側室を含めると50人近くの子宝に恵まれている。さらに50年にわたって将軍の地位にあり続けた。島津家の女性は長命と子孫繁栄をもたらす存在としてみられるようになる。
■篤姫の嫁入り
13代将軍・家定には大河ドラマにも取り上げられた篤姫が嫁いでいるが、そのレールを敷いたのは竹姫の遺言だったといっても過言ではない。
幕末になり島津家は長州と組んで倒幕運動の中心を担うことになるが、当初は徳川家を守るために長州藩と戦っている。
「島津家は徳川家を倒そうとしたわけではなく、幕藩体制を解体しようとしただけ。日本が諸外国の植民地になるのを防ぐために仕方のない戦いだった」(松尾副館長)
戊辰戦争で徳川家は存亡の危機に陥るが、島津家から嫁いだ篤姫は島津家に徳川家の救済を働きかけている。江戸城の無血開城につながり、徳川家は明治維新後も生き残った。
自分の嫁ぎ先探しに奔走してくれた実家・徳川家と、嫌々ながらも結婚を引き受けてくれた島津家。佐賀の海外旅行保険の実態調査両家に恩を感じた竹姫の遺言は、両家が血みどろの戦いを繰り広げる最悪の事態を防いだといえる。
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